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§LPコート全量基肥施肥による小麦子実タンパク質含有率の向上
熊本県農業研究センタ一生産環境研究所
主任技師 松森 信
§肥料と切手よもやま話(番外)
越野 正義
§富山の関東・東北移民と北海道移民
富山県郷土史会
常任理事 前田 英雄
熊本県農業研究センタ一生産環境研究所
主任技師 松森 信
熊本県内において小麦は約5,000haが栽培され,主に水田の裏作物として重要な役割を担っている。
小麦は2000年産から民間流通の拡大に伴い,品質向上など実需者ニーズへの対応が図られてきているが,さらに2005年産小麦からは,それまで産地銘柄により予め区分されていた契約生産奨励金が各地域の麦の品質結果に基づく区分へと移行するため,より一層の高品質化が求められている。このため,日本めん用小麦では「たんぱく」「灰分」「容積重」「フォーリングナンバー」の4つの評価項目について,基準値,許容値およびこれに伴うランク区分基準が定められている。
「たんぱく」は製麺性に大きく影響を及ぼすとされるが,一般的に西南暖地の小麦は子実タンパク含有率が低い問題を抱えている。この子実タンパク質の低下は品種や土壌条件によるもの,温暖多雨による湿害1)および窒素の流亡2)などが理由として考えられている。また,実際の農家では水田において小麦の後作に水稲の作付けがあるために成熟期が遅れるのを嫌い,減肥や追肥回数の省略が行われる事例も見られる。
一般に子実タンパク質は施肥管理によってコントロールしやすいとされ,生育後半の窒素供給を高めると子実タンパク質が上昇することはよく知られている。このため,小麦に穂ばらみ期追肥や実肥を施すのは有効な方法であることが様々な試験研究機関より報告されている1,3-5)The following is a list of the most common problems with the "C" in the "C" column.
一方で課題も残されている1,5)。例えば,穂ばらみ期以降に立毛の上方から粒状肥料を散布すると,葉と茎の間や芒などに肥料が引っかかってしまい,肥料やけを起こしやすい。また,茎立期以前の追肥では直後の土入れによりその肥効を安定化させることができるが,穂ばらみ期以降の追肥では不安定であるという課題もある。また,栽培年の気象条件によっては,出穂後の追肥窒素が急激に吸収されてしまう場合赤さび病が助長されるケースもまれに見られている。さらに,水田地帯の農家としては熟期の遅れを気にする向きもある。他方,小麦は低コストでスケールメリットを活かして栽培する作物であり,新たな労力やコスト負担をかけることはできる限り抑えたいところである。
水稲ではすでに肥効調節型肥料を用いたいわゆる「基肥一発肥料」体系が広く普及している。しかし冬作物である麦類は低温期に栽培するため肥効調節型肥料の効果は明確ではなく,施肥体系も確立されていない。そこで,小麦において追肥を省略し,子実タンパク質を増加させる施肥法として被覆尿素(LPコート)を用いた全量基肥施肥技術について検討した。
小麦は冬作物であり,低温期におけるLPコートの窒素溶出は,通常の溶出とはパターンが異なる。メッシュバッグに溶出タイプの異なるLPコートを各2.0~2.5g入れて小麦栽培期間中の水田ほ場地下5cmに埋設し定期的に回収して,残存する尿素を定量することにより求めた窒素溶出パターンは,タイプによって大きく異なる(図1)。

このうちリニア型のLPコート30は小麦の栽培期間全般にわたって溶出を続けることから,慣行の生育中期の追肥に替わる役割を果たすと期待された。一方,シグモイド型のLPコートS30やS40は溶出抑制期間が3ヶ月程度続いた後の3月から溶出が始まり,登熟終期まで溶出が続くため,生育後半に窒素吸収を高める効果があることが予想される。これらのLPコートの溶出パターンは,成熟期におけるシグモイド型の溶出率がやや少ない年も見られたが,ほぼ同様の結果を得ることができた。
熊本県の慣行施肥体系では基肥後,1月と2月にそれぞれ2kg/10a程度の追肥を行い,出穂後の追肥は行わない。図2に示すLPコート30とS40を全窒素量の30%ずつ全量基肥施肥したシミュレーションは,窒素溶出が栽培期間全般にわたって持続する一方,出穂後の窒素溶出も高くなるため,慣行施肥体系をさらに改良する窒素供給であると推定される。

溶出タイプの異なるLPコートの組み合わせが小麦の収量および品質に及ぼす影響を検討するため,表1のとおり熊本県農業研究センターの多湿黒ボク土水田において実証試験を行った。この場合,慣行である基肥+追肥体系では施肥窒素の合計は10aあたり7~9kgとした。被覆尿素配合区では施肥窒素は同量とし,そのうち40~60%の窒素を溶出期間が30~40日のリニア型あるいはシグモイド型LPコートを配合して,全量基肥施肥した。その他の栽培条件および結果は表1のとおりである。


いずれの試験とも被覆尿素配合区では子実収量は慣行と同等以上となり,検査等級の格下げや熟期の遅れおよび倒伏は見られなかった。被覆尿素配合区における成熟期の窒素吸収量は茎葉,子実ともに慣行区よりも増加し,子実のタンパク質含有率も増加した。一般的に緩効性肥料を用いた場合には窒素施肥量を慣行の1~2割減肥するが,ここでは子実中タンパク質の向上がねらいであるため,窒素施肥量を慣行栽培と同量にしている。この窒素施肥量と生育ステージに合ったLPコートを用いることによる窒素利用率の向上が,吸収される窒素の増加をもたらすものと推察される。
このLPコートを用いた全量基肥施肥で懸念される問題は,小麦作で溶出せず土壌に残存するシグモイド型LPコートの後作水稲への影響である。これについては,施肥される窒素のうちシグモイド型は最大3kg/10a程度であり,残効が現れると想定されるのは20~40%で1kg/10a前後と低い。また,熊本県内では小麦-水稲体系における水稲移植期は6月下旬であり,この時期までには溶出は完了してしまうので,後作水稲への影響は小さいと考えられる。
なお,ダイズ後の小麦作では一般的に減肥されることが多いが,このダイズ-小麦作付体系における小麦の全量基肥施肥については別途検討を要する。
小麦の単位面積当たりの収益は低く,労働時間や経費はできるだけ削減しなければならない。今回,LPコートを用いた全量基肥施肥を行うことで追肥作業は省力できることが明らかとなった。この技術は同時にハウス園芸を行っている農家や小麦の大規模栽培農家にとって労働競合の解消につながるものである。ではコストはどうであろうか。表2は慣行体系とLPコートを用いた体系について,生産現地における肥料販売価格を基にコストを比較したものである。LPコートを窒素の40~60%配合した施肥体系においては慣行施肥体系よりも肥料費はやや高くなるが,追肥作業を省略できるため,肥料費と追肥に係る労働費との合計は慣行体系よりも低減できることが試算される。よって,経済的にもLPコートを用いた全量基肥施肥は優位であることが明らかである。

このように溶出パターンの異なるLPコートを速効性窒素と組み合わせて全量基肥施肥することで,低コストでかつ省力的に子実タンパク質向上を図ることが可能である。さらに,JA熊本経済連では,速効性肥料とLPコートとの混和作業まで省略した小麦専用基肥一発肥料「麦ひとふり」(くまもとJAブランド商品)を開発した。これはLPコート30が全窒素量の40%,LPコートS30が同じく15%配合されている全量基肥用の肥料である。表1に示した試験結果でも,収量,子実タンパク質ともに慣行施肥を上回ることが確認されており,今後小麦の栽培現場への普及が期待される。
1)田谷省三:西日本における低蛋白小麦の改善方策,麦類種子貯蔵蛋白質制御技術の現状と展望,p.48~61(1999)
2)和国道宏:栽培技術による小麦タンパク質の制御,米麦改良,2000年8月号,p.24~35
3)谷口義則ら:九州地域におけるコムギの粗タンパク質含有率に及ぼす穂孕み期追肥の効果,日作紀68 48~53(1999)
4)木村秀也ら:出穂後施用窒素がコムギの子実タンパク質に及ぼす影響,土肥誌72 403~408(2001)
5)高山敏之ら:コムギにおける出穂10日後追肥の効果,日作紀73 157~162(2004)
越野 正義
肥料と切手のよもやま話で,リービヒとテーアの切手を紹介した(平成14年10月号)。その後2002年にテーア生誕250年,2003年にリービヒ生誕200年の記念切手がドイツで発|行された。
新しいテーアの切手は農学の父としてのものであるが,リービヒの切手には肥料との関係はまったくなくなり,分析化学で用いられる五連球と牛肉エキスのデザインとなっている。五連球(カリ球)は有機物を燃焼して発生する二酸化炭素を吸収させ重量を計り元素分析をする道具であり,これを使って多くの有機化合物の組成が決められた。ノーベル化学賞を受賞した初期の化学者の過半数はリービヒの実験室に関係があるといわれている。
肉エキスの研究も有名であり,保健強壮用サプリメント飲料はリービヒが元祖である。
肥料におけるリービヒの貢献については実はドイツで見直されている。これまで彼の貢献とされていた無機栄養説,最小律はともに彼よりも先にカール・シュプレンゲルが1828年に発表しており,リービヒはこれらの発見または最初の唱道者ではなく,宣伝・普及した人だったのである。ただシュプレンゲルの説は当時必ずしも理解されなかったが,リービヒの説得力,論敵を打ち破る意思の強さがこれらの説を世に受け入れさせるのに貢献したのである。
新しい切手のデザインもその意味と理解できるが,リービヒの無機栄養説,最小律と習ってきたものとしては少しさびしい感じもする。
前(財)日本肥糧検定協会 参与

富山県郷土史会
常任理事 前田 英雄
関東・東北移民は江戸時代後期の開拓移民で,主として浄土真宗門徒の人々が真宗寺院の手引きで移民したという特異なケースである。北海道移民は明治政府の施策に基づくもので,明治30年代には富山県民の移住者数が全国一位を示めるという盛況だった。その背景は富山県の農民の極端な貧困という状況があった。
越中(富山県)は親鸞上人の布教以来,真宗王国であった。宗教法人のうち仏教系は1,696寺ある(平成5年=1993)。そのうち浄土真宗は1,193寺で7割が浄土真宗の寺院である。寺院総数は滋賀県,大阪府,新潟県に次ぐが,割合ではそれらの府県をしのぐ。
浄土真宗門徒で越中(加賀)から関東・東北地方に移住した農民は,江戸時代後半真宗僧侶の手引きによって移住し移民集落をつくった。

寛政5年(1793)常陸国(現茨城県)笠間藩主牧野貞喜の意を受けた,浄土真宗西念寺の住職良水はひそかに越中(加賀)に人を送り,移民を募集した。当時関東は堕胎・間引1)が蔓延し,江戸への出稼ぎと天明の飢饉で人口が激減しており,田畑の荒廃も甚しかった。一方越中(加賀)は宗教心が篤く生児を間引くようなことがなかったので,人口が増え続け,一戸当りの土地保有面積が減り,飢饉のたびに年貢を払えない走百姓2)が続出していた。
このため寛政6年(1794)以降,良水の招きに応じた農民が続々と笠間藩に移住し,西念寺3)を旦那寺として開墾に従事した。
1)堕胎・間引:胎児を人為的に排出したり,子どもを養育しがたいとき殺すこと。
2)走百姓:所在地を逃亡した百姓で厳しく取締り死罪になった。
3)西念寺:茨城県笠岡市にあり,稲田御坊とよんだ。親鸞がここに20年間滞在して東国教化の拠点となった。

農民募集の条件は,農具代4両を支給し10ヵ年賦で返済,年貢は初年度免除,種籾,夫食4)雑穀は現物または代金で貸し,一割の利息で年末に返済するというものであった。
これによって笠間藩への移住戸数は明治維新までに450戸におよんだといわれる。笠間藩の成功に刺戟されて,近隣の水戸藩,穴戸藩(現茨城県内),下野国(現栃木県)の谷田部藩・鳥山藩,磐城国(福島県東部)相馬藩なども真宗移民を受け入れて領内の農民人口の増加を図った。幕末にはその数およそ1,300戸に及んだ。その数はほかの土地を合算すると数千戸ともいわれ,一説による約460か所,約1万戸に達するともいわれる。
移住した農民は,強い信仰心とたゆまない勤勉さと,すぐれた農業技術とによって持高を増やして,この地方の中堅自作農としての地位を築いていった。江戸という大消費地に近い関東農民は,商品経済や都市的な消費生活の影響を受けており,入百姓たちの異常ともいえるほどの勤勉さとはかなり異質の気風を持っていた。また親鸞がこの地を離れてから真宗が衰えてほかの宗派が多くなっていた。
このため真宗の宗派に固まっている入百姓たちは,現地の農民から敬遠され,(よそもの)として疎外されることもあったので,入百姓だけで一つの村落をつくっている場合もあり,故郷とも絶縁状態で自らのルーツも不明な人が多い。彼らは,どんなにたたかれでも,踏みにじられても故郷を捨ててきた以上,戻ることはできないので,浄土真宗の強い信仰心とたゆみない勤勉さで必死に働き続けた。しかし故郷の風習の散居村を築いている人たちもいる。関東への走百姓を知った加賀藩が,引き戻しにくるという噂が広まり,西念寺の住職良水は責任を一身に負って自刃して果てたといわれる。加賀藩からの引き戻しは行われなかった。
4)農民の食糧米をいうが,藩が農民の耕作仕入れのための貸米もいう。
北海道開拓移住の歴史はさほど古くなく,明治維新(1868)以降に始まった。明治元年(1868)岩倉具視の「蝦夷地開拓建議書」によると,開拓の条件として移民の必要と,漁業・農業・林業などの産業開発と経済的発展をめざすことを主としている。さらにロシアの南下に対する軍事的防衛を目標としていた。
明治2年(1869)初めて開拓使を置き,蝦夷の名称を「北海道」と改めた。当時の人口はアイヌ2万人和人約10万人という過疎地であったが,今日(平成2年1990)では564万4千人余を数える驚異的な発展を遂げた。開拓使は10年計画を建て,アメリカから農商務長官のケプロンやクラークなどのお雇い外国人を招き,道路・港湾の整備に着手した。また産業の基本たる農業は,外来品種と欧米農法を積極的に導入しようとした。また炭鉱の開発や各種官営工場も設置したが,一般からの開拓移住の応募がはかばかしく進まなかった。
明治7年(1874)開拓次官黒田清隆の建白により「屯田兵制度」が決定した。北辺防備と開拓をかね廃藩置県による失業武士の授産・救済策として実施された。明治8年(1875)最初の屯田兵村が琴似(札幌市)に設置され,198戸,965人が入った。明治23年(1890)応募資格を士族から平民に拡大し,士族屯田から平民屯田ヘ転換した。この制度は以後25年間継続して第七師団に吸収された。この間入植した屯田兵村37か村屯田兵総戸数7,337戸,家族人員39,911人で,開墾総実績は20,382町歩になった。
全国的応募者数は石川県が第一位で404戸,2,303人であった。加賀藩という大藩は失業武士も日本一多く,失業救済に旧藩主と県は勧誘指導に力を入れたからである。
富山県からは総数167戸,1,112人で全国的に13位であった(北海道移民政策史)。町村別の応募者は一部の本にしか記載がなく,平村では明治28年(1895)~30年(1897)の3年間に36戸,227人を送り出しているのが最も多い。
最初の応募は明治16年(1883)ごろに入植した西砺波郡水島村(現小矢部市)出身者であった。入植地では「納内屯田兵村(深川市)」に明治28年(1895)12人,明治29年(1896)8人参加して~ )る。年齢は18歳~25歳で大半は20歳前後であった。

本県からの最初の移住者は,明治8年(1875)ころ,西砺波郡鷹栖村の人で次いで翌年五筒山の下梨村(西砺市)からの人であった。
「北海道移民政策史」によると,明治15年(1882)~昭和10年(1935)での54年間における,全国からの移住総戸数は71万7,424戸,富山県からは5万3,850戸と記されている。富山・新潟・石川・福井の4県分を合わせると,21万5,958戸を数え,全国移住戸数の約30%となり,富山県は7.5%を占めている。このように北陸地方の人々が北海道開拓のために大きく寄与した。表1の年代別の移住人口順位にみられるように富山・石川の移住者が際立っている。特に富山県は明治35年(1902)から44年(1911)までの明治末期10年間に移住者が激増した。

この北海道移住の全般的要因についてみよう。
(1)明治の地租負担額の増加による寄生地主制の展開によって,中小農民は土地を喪失し小作農民層に没落した。北陸地方の小作地率は山陰・四国地方に次ぐ高率であった。富山県は明治中期から明治末期・大正まで50%を下ることがなかった。弱体化した小作農たちがおのずから,自作農を目的とする北海道移住につながった。
(2)明治30~40年間の富山県からの移住が最も多かった時期は,日清・日露戦争後の不景気に加え,県下各河川の大洪水による田畑の被害と,32年・40年の”うんか”の大発生による被害が甚大で凶作となり米価暴騰がもたらされ,こうした年に移住者は1万人にも達した。


北海道移住の要因は地域によってさまざまであった。五箇山三か村(平・上平・利賀)のように山間僻陬のところでは他と異なる要因があった。
1.耕地が乏しく,山里における貧窮が基本にあった。
2.加賀藩の庇護による塩硝5),和紙の生産が開国でチリ硝石,洋紙にかわり生産を停止した。
3.判方6)からの借金が累積し,畑・山林・宅地を奪われた人々が脱出した。
藩政時代の藩の庇護の許に生産した塩硝は,明治維新の開港によって安価なチリ硝石が輸入され,非近代的生産は壊滅した。和紙についても同様なことが起きた。また判方商人によって換金商品が担保になって買いたたかれ,高い生産物質を購入したり,借金をしたりしなければならなかった。
封建時代の生産方式や流通経済のゆがみから生活基盤を失った山里の人々の苦しみが背景となった。
5)火薬の原料。畑土と動物のふん尿,山草を混入ふ蝕させ,硝酸塩からとりだす。
6)判方。生糸,和紙を担保に山麓の商人から借金して,生活物資を仕入れたり,当地は金納年貢でその金を融通する商人。
北海道移民に共通しているのは,故郷を去ってきた不退転の堅い決意と東西両本願寺門徒の連帯感だといわれている。そしてねばり強い越中魂がこれをささえた。
明治33年(1900)入善町小慴戸から移民した約50人は
「業成サザレバ死ストモ帰ラズ」
の熾を立て渡道した。この熾は入植した上川郡東鷹栖寺に大切に保存されている。
しかし一方では開拓事業を企業化して,農業方法も大規模機械化して成功したのが,小矢部市出身の沼田喜三郎であった。浄土真宗大谷派東本願寺法主大谷光瑩の依頼をうけ,「開墾委託株式会社」を明治27年(1894)に設立した。彼が手掛けた開墾地は3千ヘクタールという広大なもので,その三分の二の開墾をした。富山・石川県から400戸の農民を受け入れ,開墾地は5ヘクタールにつき,300円から500円で分譲した。沼田喜三郎も400ヘクタールを取得した。その後も開墾を続け,彼の夢は稲作栽培にあって大規模灌漑事業を起したが,大水害や稲作技術の未熟から失敗した。多額の借財を一身に背負って処理し,地域の捨て石となった。沼田喜三郎は私利私欲の念が薄く子孫に美田を残そうとしなかった。


明治39年(1906),国鉄留萌線の建設が始まると喜三郎は鉄道敷地として5千坪,駅前市街用地として2万4,300坪の土地を無償で提供した。国鉄は喜三郎の功績を讃えて駅名を「石狩沼田駅」と決定した。個人の名をつけた駅として唯一のものであろう。
また,大正11年(1922)に北海道庁は村民の強い意を受けて,それまでの「上北龍村」を開拓者沼田喜三郎に対する感謝と尊敬を込めて「沼田村」(現沼田町)と命名した。



●北陸農民の関東東北移民 竹内慎一郎(昭和37年)
●富山県史通史編Ⅳ 近世下(昭和58年)
●人づくり風土記 16富山(1993年)
●富山歴史館(2001年)
●富山県史通史編Ⅴ 近代上(昭和56年)
●北海道移民政策史 安田泰次郎(昭和16年)
●沼田町史 越中人 譚 第37号 沼田喜三郎 前田英雄(平成13年)